昭和天皇と沖縄
1879年、明治政府は廃藩置県を断行し、軍隊を派遣して沖縄を襲い首里の王城を占領した。これを「琉球処分」と呼んでいるが、このとき日本は清国に対して「清が日本と対欧米なみの不平等条約を結んで、日本の便宜をはかるなら、宮古、八重山諸島をゆずろう」と申しいれている。これでは肉屋が牛肉を切り分けてお客に売ることと変わらない。
徳川幕府にかわって急拠権力をにぎり政権というマウンドを踏んだため、明治天皇も明治政府も、国土の尊厳ということを十分に認識していなかったといってよい。
いや、明治政府はじつは沖縄人を正当な日本人とは考えなかったし、沖縄をそもそも日本の国土であるとも考えてなかったのであろう。そしてこのような発想が明治以来、連綿と皇室にも残っていたのであろう。
1947年9月、いわゆる天皇メッセージがアメリカに伝わった。「アメリカが沖縄を25ないし50年、あるいはそれ以上の長期間にわたって租借してもよい」というものだ。
このメッセージは天皇の通訳として知られ『独白録』をのこした寺崎英成を通じて、GHQ政治顧問シーボルトに伝えられ国務省にとどいた。要するに沖縄を軍事基地として提供するというものである。
こういうことをやっては沖縄人に会わす顔がないであう。天皇は結局、沖縄を訪れることがなかった。1987年の国体の沖縄開催にさいして、昭和天皇は沖縄行幸を決定していたが、宮内庁病院に入院して行幸はとりやめとなった。
筆者は先年、那覇市内のホテルで50才くらいのマッサージの女性と話した。その女性は「あの方は命をかけても沖縄に来てほしかった。どうせ人間はー度は死ぬのだし、戦争では私の身内も大勢死んだ。人間はー生にー度くらい命がけにならなければ」といった。
いわゆる本土では米軍との直接対戦はなかったが、沖縄には米軍が上陸し、住民もつぎつぎ犧牲になり集団自決もあった。これらの真相は究明されたとはいえない。日本国内では皇祖皇宗よりもまずまっさきに沖縄の人たちに謝罪してほしかったと思うのは、筆者だけではあるまい。
天皇は生まれてから終戦に至るまで国民に謝罪したという経験もないし、生命をかけたという経験はなかったにちがいない。政治家とくに日本の政治家にとって「生死の美学」は最高の理念であったが、天皇にはそのような感性は存在しなかった。高い地位の日本人としては異例である。
終戦の決断にしても、すでに軍部の力が弱体化したいっぱう、原爆やソ連の参戦で自分の生命が危うくなって、カミカゼがもうー度吹いてからなどといえなくなったために決断したのである。自分の生命をかけて決断したのでなく、自分の生命を大事にしたいから決断したというべきであろう。
(鹿島曻『昭和天皇の謎』新国民社、1994年)