鹿島曻『昭和天皇の謎』

天皇という現人神の奴隷

絶大な人気をもつ歴史小説家の司馬遼太郎は、筆者の記憶によると、「日本がましな国だったのは日露戦争までだった。あとは、とくに大正7年(1918年)の、シべリア出兵からはキツネに酒を飲ませて馬に乗せたような国になり、太平洋戦争の敗戦でキツネの幻想はついえた」と述べている。彼の史観では明治という国家はそれなりに認められるのであろう。しかし筆者は賛成できない。

明治維新こそ、日本人にとって恥ずべき暗黒の始まりであったと考える。明治維新がなければ日本人は欧米列強の奴隷になっていたという人が多い。そうかもしれぬ。しかし奴隷化されたとしても、それが永久につづくわけではないし、列強の奴隷をまぬがれて天皇の奴隷になるのでは結局同じことではないか。列強の奴隷にならない代わりに戦って異郷の地で屍をさらせというのか。

黒人奴隷は人間の奴隷であったが、日本人は明治以来、天皇という現人神の奴隷であった。黒人奴隷は精神的に反抗することができたが、日本人にはそれもできなかった。

したがって、明治時代を評価するこのような発言こそ国家新生のために有害なのである。明治維新の暗黒面を自覚し反省することから新生日本が始まる。

(鹿島曻『昭和天皇の謎』新国民社、1994年)

鹿島曻『昭和天皇の謎』

昭和天皇と沖縄

1879年、明治政府は廃藩置県を断行し、軍隊を派遣して沖縄を襲い首里の王城を占領した。これを「琉球処分」と呼んでいるが、このとき日本は清国に対して「清が日本と対欧米なみの不平等条約を結んで、日本の便宜をはかるなら、宮古、八重山諸島をゆずろう」と申しいれている。これでは肉屋が牛肉を切り分けてお客に売ることと変わらない。

徳川幕府にかわって急拠権力をにぎり政権というマウンドを踏んだため、明治天皇も明治政府も、国土の尊厳ということを十分に認識していなかったといってよい。

いや、明治政府はじつは沖縄人を正当な日本人とは考えなかったし、沖縄をそもそも日本の国土であるとも考えてなかったのであろう。そしてこのような発想が明治以来、連綿と皇室にも残っていたのであろう。

1947年9月、いわゆる天皇メッセージがアメリカに伝わった。「アメリカが沖縄を25ないし50年、あるいはそれ以上の長期間にわたって租借してもよい」というものだ。

このメッセージは天皇の通訳として知られ『独白録』をのこした寺崎英成を通じて、GHQ政治顧問シーボルトに伝えられ国務省にとどいた。要するに沖縄を軍事基地として提供するというものである。

こういうことをやっては沖縄人に会わす顔がないであう。天皇は結局、沖縄を訪れることがなかった。1987年の国体の沖縄開催にさいして、昭和天皇は沖縄行幸を決定していたが、宮内庁病院に入院して行幸はとりやめとなった。

筆者は先年、那覇市内のホテルで50才くらいのマッサージの女性と話した。その女性は「あの方は命をかけても沖縄に来てほしかった。どうせ人間はー度は死ぬのだし、戦争では私の身内も大勢死んだ。人間はー生にー度くらい命がけにならなければ」といった。

いわゆる本土では米軍との直接対戦はなかったが、沖縄には米軍が上陸し、住民もつぎつぎ犧牲になり集団自決もあった。これらの真相は究明されたとはいえない。日本国内では皇祖皇宗よりもまずまっさきに沖縄の人たちに謝罪してほしかったと思うのは、筆者だけではあるまい。

天皇は生まれてから終戦に至るまで国民に謝罪したという経験もないし、生命をかけたという経験はなかったにちがいない。政治家とくに日本の政治家にとって「生死の美学」は最高の理念であったが、天皇にはそのような感性は存在しなかった。高い地位の日本人としては異例である。

終戦の決断にしても、すでに軍部の力が弱体化したいっぱう、原爆やソ連の参戦で自分の生命が危うくなって、カミカゼがもうー度吹いてからなどといえなくなったために決断したのである。自分の生命をかけて決断したのでなく、自分の生命を大事にしたいから決断したというべきであろう。

(鹿島曻『昭和天皇の謎』新国民社、1994年)

鹿島曻『昭和天皇の謎』

天皇は「東条にだまされた」と語った(4)

ここで終戦にいたるまでの天皇の戦争責任を総括しよう。

天皇の責任はまず、天皇が立憲君主か絶対君主かという見方によって変わろう。しかし、明治憲法によっても国民の常識としても、天皇は絶対君主であった。そこに昭和天皇の悲劇があった。

明治憲法上、天皇はすべての統治権をもち、天皇ただ一人が軍に対する統帥権をもっていた。

宣戦の詔書を発し、勝ち戦のあいだは天皇は側近たちとともに欣喜雀躍して、シンガポール陥落のときは「奉告を天機(きげん)御麗しく御聴取、深く御満悦の模様であった」という。天皇の真意は、「勝てばカミカゼのせいだ、もし負けたら将軍たちのせいだ」というほどのものであったろう。

これよりさき近衛内閣が三国同盟に踏みきったとき、天皇は「帝国とその意図を同じくする両国との提携は朕の深く喜ぶところなり」と詔書を出した。

戦争がいやならば、こんなことをわざわざいう必要はなかったではないか。

『入江日記』は、「(1941年)12月9日、各新聞にはハワイの大戦果を大きな字で掲げている。その嬉しいことといったらない。・・・・・天皇は三殿御親拝の上、宣戦布告を三殿に御奉告あらせられる」と述べている。このとき天皇はおおよろこびで、開戦を皇祖皇宗に申告したのである。

戦勝の結果だけを自分の手柄にしたい天皇の立場で考えてみると、戦いすんだときは「将軍たちが勝てるといったから開戦したのだ、負けたのでは話が違う。ダマされた」といったところか。

(鹿島曻『昭和天皇の謎』新国民社、1994年)

鹿島曻『昭和天皇の謎』

天皇は「東条にだまされた」と語った(3)

また天皇は「われわれはスターリン書記長の人格に大きな信頼をよせていた」と語ったことがあるという。(モズレー『天皇ヒロヒト』)

いったいあの20世紀最大の極悪人とされるスターリンに「人格」などというものがあったのだろうか。ソ連の誠意は信じがたいとも天皇は内輪だけの『独白録』ではいっている。モズレーのいうとおりであれば、この発言の狙いはスターリンに対するゴマすりでしかないであろう。

前にも記したように、ソ連がドイツ軍との戦いで敗色が濃いときを狙って、背後から火事場泥棒的にソ連をおびやかすために日本は「関特演」を行なった。数十万の兵を動かしたこの大動員は、大元帥たる天皇の命令によるものであった。

ソ連が中立条約を破って日本に宣戦布告をしたことを非難する意見があるが、これだけのことを日本がしていたのでは、国際法的にソ連に対して中立を期待するのは図々しい。

さらにまたシベリア出兵にしてもノモンハンにしても、しかけたのは日本軍であった。やられたほうはちゃんと覚えていて、スターリンは日本の敗色がはっきりしたときにやり返したのである。ソ連の捕虜虐待は犯罪行為であることはまちがいないが、日本にやり返したことには正当な理由がある。

ところでアメリカの世論調査では戦争直後天皇戦犯論が圧倒的に有力であったが、マッカーサーにもアメリカ本国政府にも、戦犯として天皇の責任を追及する意図はなかった。この「意思の弱い」天皇はうまく利用できるという考えがあった。

マッカーサーは、「天皇は20個師団、最小限に見つもって100万人の占領軍の力をもっている。政治的配慮で戦犯リストから除外すべきだ」と主張しつづけた。天皇に責任がないとしたわけではない。「弱味のある人間は徹底的に利用する」というのが、マッカーサーも一員である「フリーメーソン」の憲法であった。

(鹿島曻『昭和天皇の謎』新国民社、1994年)

鹿島曻『昭和天皇の謎』

天皇は「東条にだまされた」と語った(2)

「A級戦犯判決の23年(昭和)2月12日に、村井元宮内官が御座所のドアを開けたところ、陛下は眼を泣き腫らして、真っ赤な顔をしておられた」(「新潮45」昭62/1)

このとき東条のために泣いた日本人はそうたくさんはいなかった。天皇はマッカーサーとの会見において、東条を「使い捨て」にし、スケープゴートに仕立てて、東条の処刑を確定させたのであるが、不思議なことに自らはそのことを忘れたのか、その意識がなかったようである。「東条にだまされた」とマッカーサーにいって、孤立無援で救いのない東条の足をひっぱっておきながら、いざ東条が処刑されるとなると自責の念にかられたのである。

昭和天皇は、まったく将軍に向かない、「せいぜい少将程度の能力しかない東条」(真崎大将がいった)を寵臣にした。こういう情実人事は、信長、秀吉、家康といったたぐいの武将ならば決してしなかったにちがいない。

東条は天皇にせっせとゴマをすって、統制派のリーダーとして中国に対する侵略戦争にはげみ、天皇もそんな東条を側近ナンバーワンとして遇した。またそのことが木戸をして東条を首相に推薦させた唯一の理由であった。乃木にしろ東条にしろ、戦功によって出世したわけではなく、先輩をスパイするとか仲間を謀略にかけるとかで出世した男である。

1975年9月8日、天皇はアメリカNBC放送のエドウィン・ニューマンに対して、「私は終戦を私の意思で決定しました。動機は日本国民が戦争による食糧不足や多くの損失にあえいでいたという事実や、戦争の継続は国民にいっそうの悲惨さをもたらすだけだと考えたためでした」といって得意になった。

また同年9月20日、天皇はアメリカのニューズ・ウィーク誌のバーナード・クリッシャーに対して、「戦争終結のさい私はみずから決定をくだしました。それは首相が閣内で意見をまとめあげることができず私に意見を求めたからです。私は自分の意見を述べそれに基づいて決断しました。開戦時には閣議決定があり、私はその決定をくつがえすことはできなかった」といった。

しかし、すでに論じてきたようにこれはマッカなウソであった。これらの取材への回答は、天皇訪米前のとりつくろいでしかなかった。

要するに天皇はソ連の参戦によって、ソ連に捕らえられればまちがいなく処刑されると思ったのであろう。自分の生命があぶないとなれば、天皇はもう決して「鈍行列車」ではない。ソ連に捕らえられる前にアメリカに降服すれば、生命だけは助けてもらえるかもしれない。それはひとえに「恐怖の暴走」であった。

(鹿島曻『昭和天皇の謎』新国民社、1994年)

鹿島曻『昭和天皇の謎』

天皇は「東条にだまされた」と語った(1)

1946年1月4日、GHQの政治顧問ジョージ・アチソンはトルーマン大統領に対して「私は天皇が戦犯だったと信じている。しかし官吏と多くの日本人は天皇に服していて、天皇はわれわれの目的達成のために喜んで協力するといっている」と報告した。

アチソンはまた、天皇とマッカーサーの第一回の会議(1945年9月27日)について覚書を残している。それによると、天皇はマッカーサーに対し腰の高さまで頭を下げておじぎをし、握手して腰をおろすや、日本の宣戦布告をアメリカが受けとる前にパール・ハーバーを攻撃したのは天皇の意図ではなく、東条がだましたのだといったという。

頭を腰まで下げるのでは、天皇にとってなれないこととてずいぶんご苦労だったであろう。しかし、この覚書には肝心なことがひとつ抜けているかもしれない。

仄聞するところによると、天皇はこのとき20カラットの最上級のダイヤモンドをマッカーサーに贈呈したという。証拠もないし、ここで真相を明らかにすることはできないが、マッカーサーはフィリピンでは莫大なそでの下を貰ったという報告がある。他人を訪問するさい、手みやげを持参するのは日本人の習慣だから、こんなことがあったとしてもべつにおかしくはあるまい。また、天皇はとくに自分の家族についても語ったという。

ジョン・ガンサーは「天皇は『私が戦争に反対したなら、国民は私を精神病院に入れただろう』といった」と書いている(『マッカーサーの謎』文芸春秋 昭50/10)

このガンサーの表現には若干の真実がある。大正天皇が精神異常だといわれたため、昭和天皇はその遺伝を恐れたであろうし、それが政治的に利用されることも計算したのであろう。

たしかに天皇の意思能力は乏しいとみられたから(あの聖断の遅れ、とまどいがその例)ご本人にも自覚症状があったかもしれない。

しかし、紙きれ一枚で戦争に動員されて、むなしく異郷で死んだ人びとにくらべたら、病人は病院に入ったほうがまだよかったのではないか。とりわけ国家のためにはなったのではないか。天皇のこうした発言は「臆病」といわれた天皇の性格、不法なる既成事実に反対することなく追認しつづけた「性格の弱さ」を前提にしなければ、とうてい理解できない。

(鹿島曻『昭和天皇の謎』新国民社、1994年)

鹿島曻『昭和天皇の謎』

侵略戦争はヤクザの縄張り争いと同じだ(4・完)

また、柳条溝事件のとき、林銑十郎朝鮮軍司令官は独断で鴨緑江を渡って満州に出兵した。林は進退伺いを出したが、天皇はそれを免責したという。関東軍、朝鮮軍の侵攻によって半年足らずで満州略奪は成功した。

このときもまた天皇は、柳条溝事件の張本人である関東軍参謀の板垣征四郎や石原莞爾を殊勲者として厚く遇しているし、本庄司令官はのちに侍従武官長として側近に置いた。林司令官にはのちに組閣の大令を下している。関東軍に対しては「朕深くその忠烈を嘉(よみ)す」と勅語で賞めている。天皇にはこの侵略について悪の意識がなかったのであろう。

1932年3月、清朝の廃帝(ラスト・エンペラー)溥儀を用いて満州建国が行なわれる。1932年1月の上海事件(日蓮宗僧殺害を契機とする日本軍と中国軍の戦い)で、外国の目を上海に集めておいて、であった。

日本の満州建国に反対する声がアメリカ、イギリスであがったが、アメリカもイギリスも中国に同情したように見せて、じつのところ日本の一人占めに不服だったのである。国内では、帝国主義による中国領土の強奪を天皇はもとよりすべての国民が喜び、歓迎したのだった。

このときの日本人は自ら漢字文化圏の一員であり、そうである以上「中原の鹿を追う」資格があるという自覚はなかった。自らを神国の民として中国人を“チャンコロ”と蔑視し、文明人が野蛮人を攻め滅ぼすという了見だったのである。いくら当時の国民の経済が不振であったからといって、他国を侵略して喜ぶということこそ、道義の退廃といえる。

(鹿島曻『昭和天皇の謎』新国民社、1994年)

鹿島曻『昭和天皇の謎』

侵略戦争はヤクザの縄張り争いと同じだ(3)

したがって、天皇が憲法にのっとり法治主義を貫くとすれば、最初田中首相から報告のあったとき、天皇はまず陸軍参謀総長に事件の調査を命令すべきだったのである。天皇が事件の責任者にみずから命令せず、権限のない田中に「辞表を出してはどうか」と強い語気でいったのは、天皇みずからいう「私の若気の至りである」にしても、田中を責めるのはおかどちがいであり、なすべきことは自分にあった。

この張作霖爆殺事件は3年後の柳条溝事件の伏線であり、満州事変から日中戦争、そして日中戦争から太平洋戦争へとつらなっていく。天皇の独白録の冒頭にこの事件が置かれていることは意味が深く、天皇が事件の犯人であった河本大佐を処分しえなかった責任はじつに大きい。歴史的な大チョンボといえよう。

1931年9月、関東軍はこんどは柳条溝事件を生みだす。奉天近くの柳条溝で南満州鉄道を爆破したのである。この鉄道は日露戦争で日本がロシアから譲渡されたものである。爆破を中国軍のせいにして、それを理由に関東軍は中国軍との戦いを始めた。陸軍の謀略によって始まった侵略であり、これが満州事変の始まりであった。

関東軍司令官本庄繁は「一部軍人、民間人によって謀略が企てられたときき及びましたが、関東軍ならびに本職としては、断じて謀略はやっておりません」と天皇の前でシラを切り、天皇は満足したという。うまくウソをつければよいのである。

(鹿島曻『昭和天皇の謎』新国民社、1994年)

鹿島曻『昭和天皇の謎』

侵略戦争はヤクザの縄張り争いと同じだ(2)

張作霖爆殺事件は関東軍の独走ではなかった。東条英機ら全陸軍によって支持されていたのだ。しかし、あらかじめ首相田中義一はその計画を知らず、張作霖をつねづね自分の子分と思っていたからびっくり仰天したのである。

天皇は再三にわたって田中首相に犯人の処罰を命じたが、田中は全陸軍の抵抗にあって処罰できない。天皇は侍従長鈴木貫太郎に「田中のいうことはちっともわからん。二度と聞きとうない」といった。それを侍従長からきいた田中は総辞職を決意し、1928年7月に退陣する。本人は9月に急死しているが自殺であろうという人も多い。

陸軍の規定によると、日本国外に駐屯する関東軍を統括するのは総理大臣でも陸軍大臣でもなく、参謀総長である。

また、大日本帝国憲法の第11条には「天皇は陸海軍を統帥す」とある。日本の軍隊の最高のリーダーは天皇なのだ。天皇から命ぜられて軍隊を動かすのが、参謀総長をトップとする陸軍参謀本部であり、軍令部総長をトップとする海軍軍令部であった。前者は陸軍、後者は海軍を司る。

現代人には理解しにくいが、関東軍を本土から指揮する参謀総長に命令できるのは大元帥たる天皇ただ一人であって、田中首相にはなんの権限もなかった。これが「天皇は陸海軍を統帥す」のシステムであり、天皇の大権の一つであった。

(鹿島曻『昭和天皇の謎』新国民社、1994年)

鹿島曻『昭和天皇の謎』

侵略戦争はヤクザの縄張り争いと同じだ(1)

100年前の日清戦争(1894〜5)で、日本は台湾の割譲を受けただけでなく、ともかく中国本土に足がかりを得た。日露戦争(1904〜5)の結果、満州と朝鮮半島に進攻することになった。さらに第一次大戦(1914〜18)ののち、日本は中国本土の山東半島の権益を手中にした。このような歴史的事実は小学生も知っている程度のおさらいであるが、これで日本は帝国主義国家への仲間入りを果たしたといえよう。

時は流れて1926年末、昭和の御世となる。昭和天皇25歳であった。

1928年6月の張作霖爆殺は、日本の帝国主義路線の延長線上にあった。軍閥政治の中華民国にあって、張作霖は北京の大元帥といわれていたが、じつは日本の操り人形であった。南方の蔣介石と対決して形勢はかんばしからず、6月4日、張作霖は、満州に駐屯していた関東軍(満州の日本陸軍)の強力な要求で、北京から特別列車に乗って奉天(瀋陽)に帰ろうとしたが、午前5時20分、奉天駅に近づいたとき列車を爆破されて、その日午前10時頃死亡した。

この爆破は関東軍参謀の河本大作大佐が計画したもので、その狙いは満州を日本、よりリアルにいえば陸軍の手で押さえようとしたものである。

「この事件の首謀者は河本大作大佐である。田中総理は最初私に対し、この事件ははなはだ遺憾なことで、たとえ、自称にせよ一地方の主権者を爆死せしめたのであるから、河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表するつもりである、ということであった。(中略)田中は再び私のところにやって来て、この問題はうやむやの中に葬りたいということであった。それでは前言とはなはだ相違したことになるから、私は田中に対し、それでは前と話がちがうではないか、辞表を出してはどうかと強い語気でいった」(『昭和天皇独白録』表記は現代かなづかいにした)

(鹿島曻『昭和天皇の謎』新国民社、1994年)