山口県人の立身出世率
(以下は昭和33年(1958年)の雑誌記事の一部です)
山口県人は、人物という点からいうと、いろいろな記録をほとんど独占している形である。
まず日本では、”出世双六” の “上り” のように見られている総理大臣についていうと、伊藤博文、山県有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一 、岸信介と、6人も出している。この中で伊藤は4回、山県は2回、桂は3回も組閣しているから、延べにすると13人出たことになる(このあと佐藤栄作が3回、安倍晋三が4回組閣しているー引用者)。
閣僚にいたっては、約30名で、これも責任が少くないから、延べにすると、100人をこえている。
つぎに軍人だが、陸軍大将13名、海軍大将2名、そのほか陸、海軍の中将、少将にいたっては、はいてすてるほどいる。
また旧華族は、防長クラブの調査によると、明治以後の勲功によって爵位をえたものだけでも、公爵3、侯爵2、伯爵8、子爵16、男爵47、計76となっている。これに毛利一族やその重臣で爵位を授かったものを加えると、100人近くになる。昭和18年当時の有爵者総数は939人だから、その約9分の1は山口県関係者ということになる。最高位の公爵においても、19名中、4名まで山口県で占めている。
山口県の人口は、近年大いにふえたといっても、約160万で、日本の総人口8900万の1.8%にすぎない。しかし明治以後に、発生した新貴族においては、約10%を占め、5倍以上の立身出世率を示しているわけだ。
あすは祝いの男爵子爵、五尺おとこの威張りぶり “御前お酌” の袂にかくれ、人のそしりを避けしゃんせ
これは日露戦争後に流行した歌だが、かれらがこの勝利の栄冠をほとんど独占し、かつての中間、足軽やその倅たちが、”殿様” とか “御前” とか呼ばれ、脇息にもたれてフンゾリかえっていた姿が思いやられる。もしも大東亜戦争に日本が勝っていたならば、この状態がさらに何倍かのスケールにおいて再現されたにちがいない。
(大宅壮一「権勢と反逆を生む山口県」『文藝春秋』昭和33年3月。大宅壮一『無思想の思想』文藝春秋、1991年より引用)
